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14日、5時前夕日が沈むところに出会った。
新家から旧砂川生コンに向う道を自転車でいく時大きな真っ赤というより橙の太陽が沈んで行くところだった。カメラアングルに樹が丁度掛る位置だったので大道から最近出来た一丘団地に抜ける獣道に入って行く所に入りシャッターをきった。 しかしとても肉眼で見た様子は伝えられない。各々が直接見て頂くお誘いになればという事である。 今朝砂川駅で7時40分になって顔にようやく太陽の輝きが届いた。 日が長くなりました。 6時35分から8時半迄、駅頭山側に立って役選議会の報告をお配りしました。 参議院の証人喚問のラジをを聞いていて 個人的特殊な事件か、と問われ、そうですといって答えています。 守屋元防衛省次官の『一生懸命にやっている職員に済まない』といっている。どんな責任でも取るつもり退職金も受け取らない、といっていて自殺に追い込まれるのではないかと思ってします。 絶対に責任を個人の責任にしないでほしい。そうではないのですから。 次官という官僚のトップになって行く迄にそういう様な事をやってしまった人がやったのであって、それは明らかに構造的な問題である。それが気が付かなくて次官になるというような事はないはずだ。 でなけれれば社会的問題として解決はされない。 そのカギを握っているのが事件を興した守屋氏である。 だから軽決のカギも事件との同時な事として守屋氏が握っているのである。 それを察知する立場がトップとしての立場である。 5000万円の不動産を売った金を増やせるとして同僚に4500万円を預けた事もそういうような事が普通に行われているのか、といって質問されたがこれも『特異な事で』あると個人的な問題にしてしまっている。悲しい。 日本の支配のブンカは社会性がない。 人や、物事は個人的であると同時に組織的である。組織的存在である。そこに人々の共通問題となる。 そうした時、事件は時代を写す鏡である。 そして事件は「最も弱い」部分に表れる。事件に出会った人はある意味からは「時代から選ばれた」存在である。そういう認識が必要である。 防衛省も他の省庁よりは『格が下』という話しを聞いた。 何でも昔は内務省、今は財務省という。 財務省が官僚の世界では「上だ」という事は何となしに頷ける話しである。 それを格下のトップが打つという事が社会的である。 防衛省はなんたって憲法に違反する立場だからと私はいいたい。 そしてそういう所に個人の問題としてそのしわ寄せが起こってくるのは当然ともいえよう。 そういうように考えるなら、そこにこそ全体の問題を打つチャンスがある。蟻が像を倒す原理である。像からは蟻は見えないのである、死角である。 一大逆点である。 どうぞ守屋元次官、個人で問題を抱え込まず(でないのだから)に日本全体、世界を打つ問題としてとらえて絶対に自殺をするというような事は考えないでほしい。 まずはアメリカの軍事体制を打て!。
by koyama_h
| 2007-11-15 16:04
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